「田園」(Pastorale)として知られるベートーヴェンの
第六交響曲 がオーストリア・ウィーンの
アン・デア・ウィーン劇場 で
第五交響曲 (運命)とともに初演(作曲家自身によって指揮)されたのは207年前の今日(1808年12月22日)とされている(ちなみに初演時、「田園」は第5番として、「運命」は第6番として、現在とは逆の順番で演奏された)。
VIDEO ▼交響曲第6番ヘ長調作品番号68『田園』(Die Sinfonie Nr. 6 F-Dur op. 68)(Pastoral)(1808年完成・初演)
作曲: ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven, 1770-1827)
指揮: パーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Järvi)
演奏: ブレーメン・ドイツ室内フィルハーモニー管弦楽団(Die Deutsche Kammerphilharmonie Bremen)
第1楽章「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め(Erwachen heiterer Empfindungen bei der Ankunft auf dem Lande)」: Allegro ma non troppo
第2楽章「小川のほとりの情景(Szene am Bach)」: Andante molto mosso 12:10
第3楽章「田舎の人々の楽しい集い(Lustiges Zusammensein der Landleute)」: Allegro 23:50
第4楽章「雷雨、嵐(Gewitter, Sturm)」: Allegro 28:52
第5楽章「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち(Hirtengesang. Frohe und dankbare Gefühle nach dem Sturm)」: Allegretto 32:20
https://www.youtube.com/watch?v=2vqhu5kM3vs ところで、なぜ「運命」ではなく「田園」を取り上げたかというと、つい最近発売された川口マーン恵美著『
ヨーロッパから民主主義が消える 』(PHP新書)を例によって斜め読みしていたところ、>>第5章「強すぎるドイツ」も内実はボロボロだ<<の一節「フォルクスワーゲン不正ソフト事件が与える衝撃」(pp.128-128)の中で「第六交響曲」について言及されていたからである。なかなか興味深い話なので当該箇所(p.125)(太字)を含めて、例によって引用させてもらう。
そのドイツをさらにボロボロにしようとしているのが、二〇一五年九月からドイツ全土を揺るがしているフォルクスワーゲンの不正ソフト事件だ。この事件は社会に与えたインパクトの強さゆえ、ウォーターゲートにちなんで、ディーゼルゲートと呼ばれるようになった。この事件が起こったとき、誰もが驚いたはずだ。あのドイツが!? と。
ドイツの特徴の一つは、その優秀さだ。この国では、社会のここぞという場所に配置されている人々は文句なしに優秀である。その優秀なドイツ人がつくる製品は、当然のことながら、世界でも定評がある。
だからこそ、ドイツ製品が世界市場で他国の製品と競合するとしたら、最終的にはやはりハイテクのmade in Japanしかない。ドイツ人と日本人は、センスではイタリアに、進取の気質ではアメリカに引けをとるところがあるかもしれないが、よいモノづくりにかけてはつねに世界一を争ってきた究極のライバルである。
それにもかかわらず、日本人はドイツ人を好意的にみてきたし、いまもみている。敬意を表してもいる。ところがドイツ人は、それが鼻の差であれ、日本人が彼らの後塵を配しているあいだは好意的だが、彼らを超えることは絶対に許さない。昨今ますます猛々しくなっているドイツ人の日本攻撃は、もとを正せば、日本がGDPでドイツを抜かした一九六八年に始まったのだと、私は思っている。ドイツ人にとって日本がライバルではなく、小癪な国になって久しい。
技術大国ドイツの人々の複雑さは次のようところにも表れる。彼らは絶大な技術力を誇りに感じつつ、技術そのものに対する不信の念をどうしても拭いきれない。つねに人間のほんとうの幸福は、技術の進歩を追い求めることではなく、自然と共存して生きるところにあるのではないかと考えている。彼らにとっての理想の生活とは、物質文明への貢献ではなく、そこからの離脱なのだ。自然回帰は彼らの大いなる夢である。
この夢は、ベートーヴェンの第六交響曲によく表れている。この曲にはPastoraleという副題がついており(ベートーヴェン自身がつけたらしい)、それが日本では「田園」と訳されているが、Pastoraleというのは、牧歌的なものへの憧れが最大限に込められた言葉だ。ベートーヴェンが何を求めていたかは、各楽章につけられた標題をみれば、さらによく理解できるだろう。
第一楽章は「田舎に到着し、嬉しくてたまらない感情の湧いてくるさま」、第二楽章は「小川の情景」、続いて「田舎の人々との楽しい集い」「雷雨、嵐」そして「牧歌―嵐のあとの嬉しく感謝に満ちた感情」。これだけでベートーヴェンが一級のロマンチストであることに疑問の余地はなくなる。そして、ベートーヴェンの願望はそのまま、いまのドイツ人の願望でもある。
とはいえ、現在、ドイツ人の実生活は自然回帰とは程遠い。ギリシャ人なら、自然回帰したければ、つべこべいわずにするだろうが、ドイツ人はそうはいかない。なぜか? 彼らの心には、自然回帰だけではなく、技術の進歩を求める衝動も抜き難くあるからだ。世界一になりたいという野望は強い。
それらが自然回帰の願望と衝突するから、ドイツ人の悩みは深くなる。それもこれも、ドイツ人が優秀であり、同時にロマンチストであるがために起こる悩みなのであるが、こうしてみると、ドイツ人の行動が、ときに現実と乖離するのは、これまた必然のようにも思えてくる。
そのドイツで起こったフォルクスワーゲンの不正ソフトが凄かった。検査のときは排ガスを抑えさせ、普通の走行になると、「よし、もう大丈夫」とクルマに教える。するとクルマは、検査時の四〇倍もの窒素酸化物を撒き散らしてズンズン走る。技術大国ドイツ、不正もまことにハイテクである。
ディーゼルゲートで何がいけなかったというと、ドイツがこれまで環境、環境と偉そうにいいながら、じつは、環境規制を技術力でもって不正に切り抜けようとしていたことだ。つまり、傷がついたのはドイツ人の信用であり、技術力ではないというのがドイツ人自身の認識である。それどころか、今回の事件は、made in Germanyのクオリティーをいっそう持ち上げる結果となったというような自己批判的自画自賛評(?)もあった。
(中略)
さらに、ドイツ人を襲っている危機は、made in Germanyの信頼失墜だけではない。大見得を切った脱原発は、ほんとうに二〇二二年までに達成できるかどうか疑わしくなっているし、FIFA(国際サッカー連盟)のプラッター会長の汚職疑惑を、高みから非難がましく眺めていたら、二〇〇六年のドイツのW杯誘致は、ドイツサッカー協会がお金で買ったものだという疑惑が持ち上がった。
そして、そのドイツにとどめを刺そうとしているのが、ひっきりなしに押し寄せてくる難民なのである。 pp.123-128