Das Notizbuch von ka2ka ― ka2kaの雑記帳

『車輪の下(Unterm Rad)』の翻訳をめぐるあれこれ(1)

▼今回は訳語というよりもドイツ語に特有の表現の訳し方を吟味。

第一章に戻って、州試験(Landexamen)を受験するためにシュトゥットガルトへ行く前日の就寝前のハンスと父親の会話:

▼原文(Hermann Hesse Unterm Rad Suhrkamp BasisBibliothek 34 pp.19-20)
»Gut’ Nacht, Hans. Schlaf nur gut! Also um sechs Uhr weck ich dich morgen. Hast du auch den Lexikon nicht vergessen?«
»Nein, ich hab ›den‹ Lexikon nicht vergessen. Gut’ Nacht!«
何も問題なさそうな単純な会話に見えるが、翻訳にさいしては悩ましい問題が含まれているので取りあげることにした。今回は、まず英訳から引用する。

▼英訳①(Penguin Modern Classics版The Prodigy
 ‘Goodnight, Hans. Mind you sleep well! I’ll wake you at six then. You haven’t forgotten your dictionary, have you?’
  ‘No, I have not forgotten the lexicon. Goodnight!’

▼英訳②(Kindle版Beneath the Wheel
 “Good night now, Hans. Make sure you sleep well. I’ll get you at six. You haven’t forgotten to pack your word book, have you?”
 “No, I haven’t forgotten to pack may dictionary. Good night, Father.”

以下、これまでと同様、10氏の訳を出版年が古い順に引用する。

秋山六郎兵衛(1900-1971)訳
 「おやすみ、ハンス。よく眠るんだよ。じゃ、明朝は六時に起こしてやろう。百科事典は忘れていないだろうな」
 「ええ、あの百科事典は忘れていません。おやすみなさい」

高橋健二(1902-1998)訳
 「お休み、ハンス。よく眠るんだよ。じゃ、あすの朝六時に起こしてやるからね。字引きも忘れはしなかったか?」
 「うん、字引きなんか忘れやしないよ。お休みなさい」

秋山英夫(1911-1991)訳
 「おやすみ、ハンス。よくねむるんだよ。じゃあしたは六時におこすからね。字ひきも忘れてはいまいね。」
 「うん、字ひきなんかわすれちゃいないよ。おやすみ!」
*引用者注: 「字ひき」の下線は原文では強調の傍点。

実吉捷郎(1895-1962)訳
 「おやすみ、ハンス。ようくねむるんだぞ。じゃ、あしたは六時におこしてやる。それから字典(じでん)も忘れてはいないだろうな。」
 「ええ。『字典(じでん)』は忘れちゃいませんよ。おやすみなさい。」

辻瑆(1923-)訳
 「おやすみ、ハンス。よく眠るんだよ! じゃあ明日は六時に起こすからね。字ん引きも忘れてないないだろうな?」
 「うん、字ん引きは忘れてないよ。おやすみなさい」
*引用者注: 「字ん引き」の下線は原文では強調の傍点

岩淵達治(1927-2013)訳
 「おやすみハンス。よく眠るんだぞ。じゃ朝六時に起こすからな。クショナリーは忘れてないかい」
 「ディクショナリーは忘れていっこないよ。おやすみなさい」
*引用者注: 下線はいずれも原文では強調の傍点

登張正実(1916-2006)訳
 「おやすみ、ハンス。よくねむるんだよ。じゃあ、あすは六時に起こすからね。字引きもわすれてないだろうな」
 「うん、字引きをわすれちゃいないよ。おやすみなさい」

井上正蔵(1913-1989)訳
 「おやすみ、ハンス。よく眠るんだぞ。じゃあ、あしたは六時に起こしてやるからな。それから、字引きも忘れてないだろうな」
 「もちろん字引きは忘れっこないよ。おやすみなさい」

伊藤貴雄(1973-)訳
 「おやすみ、ハンス。よく眠るんだぞ! 六時には起すからな。辞書(デア・レキシコン)も忘れてないだろうな?」
 「うん、辞書(デア・レキシコン)は忘れっこないよ(14)。おやすみ!」
*訳者注:
(14)ドイツ語では「辞書」(Lexikon)は中性名詞なので、本来なら「ダス・レキシコン」と発音すべきところを、父親がまちがったのである。ハンスは面倒がって、あえてそれを訂正しない。

松永美穂(1958-)訳
 「お休み、ハンス。よく寝るんだよ! 明日は六時に起こすから。字い引きは忘れてないだろうね?」
 「ええ、字い引きは忘れていませんよ(4)。おやすみなさい!」
*引用者注: 「字い引き」には「字(じ)い引(び)き」とふりがな
*訳者注:
(4)ハンスの父親は無学で、Lexikonという単語が中性名詞なのに男性名詞でしゃべっている。ハンスも父親を傷つけないように、父の間違った言葉をそのままくりかえしているのである。

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⑦追記: 『車輪の下(Unterm Rad)』の中の訳語をふたたび吟味する ―魚編―(2) 2016-06-21
⑥続)『車輪の下(Unterm Rad)』の中の訳語をふたたび吟味する ―魚編―(1)2016-06-16
⑤『車輪の下(Unterm Rad)』の中の訳語をふたたび吟味する ―魚編―(1)2016-06-16

④補足:続続)ヘルマン・ヘッセに捧ぐ: 誤訳を見つけて御役に立てれば何より… 2016-06-01
③続続)ヘルマン・ヘッセに捧ぐ: 誤訳を見つけて御役に立てれば何より… 2016-05-21
②続)ヘルマン・ヘッセに捧ぐ: 誤訳を見つけて御役に立てれば何より… 2016-05-17
①ヘルマン・ヘッセに捧ぐ: 誤訳を見つけて御役に立てれば何より… 2016-05-12


by ka2ka55 | 2016-06-23 11:21 | 翻訳 | Comments(0)