Das Notizbuch von ka2ka ― ka2kaの雑記帳

「ドイツ見習え論」をめぐるあれこれ(13)

▼ドイツから見た日本の取り組み/ハンス・マーティン・クレーマ(その3)
その2)のつづき

*本論文を執筆した時点では「ボッフム大学日本学准教授」(2008年から2012年まで)だったため「H.M.クレーマ准教授」としていましたが、念のため調べてみると、2012年からはハイデルベルク大学日本学(歴史/社会を重点研究)教授(Professor für Japanologie (Schwerpunkt Geschichte/Gesellschaft) an der Universität Heidelberg)とのことなので、以下、「H.M.クレーマ教授」とします。

「日本の劣位=ドイツの優位」という図式(トポス)は、ドイツ統一(1990年)後にイアン・ブルマ氏の著書『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(1994年)を契機にマスメディアを通じて現れたとH.M.クレーマ教授は述べるのだが、「実際には、マスメディア以外の発表も視野に入れるならば、それ以前にも存在していなかったわけではない」として2つの例を挙げている。
 筆者の把握している最も古い例は、現代ドイツ史家のマルティン・ブロシャートの一九七四年の記事である。ドイツ現代史の主要雑誌『Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte』にしては稀な、日本を主題とした記事で、ブロシャートが講演会や専門家ワークショップを行うための日本旅行から帰国した後に書かれたものである。ブロシャートは、自ら認めるように「方法的に反駁しやすくて、断片的な印象」として、日本の現代史研究の業績、現代史研究に利用できる文書館、研究機関などを羅列し、それらの性格が満足から程遠いものであると指摘したうえで、特にドイツ歴史家の目から見るとどれほど驚くべきであるかと述べている。さらには、この所見が過去との取り組みと無関係ではないと主張する。「日本現代史研究の欠陥は偶然の現象ではないと考えている。その欠陥はむしろ、ドイツと比較して政治的方面においても戦前の政治と社会から取られた距離が不十分であることと密接に結びついている」。ブロシャートの分析はこのような示唆をもってそれ以上深く検討せず、ドイツと日本の差異がなぜ存在するのかというより根本的な問題に立ち入ろうとはしない。 p.234
一方、マルティン・ブロシャート氏(Martin Broszat)の記事(原題: Zeitgeschichte in Japan)に比べて学術的なものではないが、5年後(1979年)にはドイツ公共テレビの東アジア特派員ゲルハルト・ダンプマン(Gerhard Dambmann)氏が、「ポピュラーな本としては割と長めで、深く掘り下げて論じられた『孤立する大国ニッポン』(原題:『25 mal Japan: Weltmacht als Einzelgänger』)を出版し、その中でダンプマン氏は、「ドイツと日本の差異を述べるだけにとどまらず、初めてその理由を試みている」という。
二五の短い章からなる本書の一つの章は、「過去の克服―天皇擁護論」と題されている。一九八五年刊行の新版において、真珠湾への攻撃、第二次世界大戦下の日本による虐殺や戦争犯罪から、東京裁判、岸内閣および一九八二年の教科書問題に至る日本の戦時戦後史を簡単に紹介した後、次のように総括する。「日本とドイツ連邦との対比があまりにも顕著である。西ドイツで、第三帝国の犯罪を法的、または倫理的な道で完全に整理することに成功したわけではないと主張する者も、数多くの取り組みや善意の試み、弁償の努力、熱心な戦争責任についての公論、現在に至る諸訴訟などを否定することはできない」。ここから読み取れるように、ダンプマンの立場を今の世論と比べると、日本への判断についてはさほど異なるわけではないが、ドイツの成果についてははるかに慎重である。これは一九八九年以前の冷戦下における西ドイツのインテリの典型例で、西ドイツを過剰に肯定することを避けようとしたものである。 p.235 (強調はka2ka)
なるほど「理由」を明らかにするにしても統一前の段階では「慎重」にならざるを得ない理由が(強調部分によって)頷けるわけだが、しかしながらダンプマン氏の分析に対するH.M.クレーマ教授の評価はけっして高くはなく、むしろ批判的である。
ダンプマンは、真面目な戦争責任論が戦後日本に成立していなかったと述べ、その原因を次のように分析している。「このような無関心の主因は、日本人の考え方、日本人の相対的道徳観に由来するだろう。日本人が第二次世界大戦中なしたことの全ては、最も高尚で、最も総合的な集団(ウチ)である日本国民のためになしたのである。この集団に属していない者(ソト)への影響はともかくとして、勇ましくて没我的に国民に奉仕することだけが、最高道徳の行為かのように見えた」。強制連行の犠牲者や被爆者となった韓国人に対する日本政府の待遇を批判する、ダンプマンの鋭い政治批判も、このように表面的な、結局は旧式のルース・ベネディクトの『菊と刀』に辿ることのできる文化主義的な説明を加えたことによって、その価値が損なわれていると言わざるを得ない。 pp.235-236
(つづく)
by ka2ka55 | 2015-11-10 03:00 | ニュース