Das Notizbuch von ka2ka ― ka2kaの雑記帳

「ドイツ見習え論」をめぐるあれこれ(8)

Erinnerungskulturとは…
T.スナイダー教授の別のインタビュー記事のタイトル(Ich bin nicht der Diener einer Erinnerungskultur)の"Erinnerungskultur"は一般の辞書には載っていない単語だが、これも"Erinnerung"(記憶)と"Kultur"(文化)の複合語であることは明らか。したがって「記憶の文化」と訳せば間違いないが、そもそも「記憶の文化」とは何か。そしてスナイダー教授が「私は『記憶の文化』の奉仕者ではありません」というのは何を意味するのか…

以下、当該記事の一部を引用:

▼引用1)出典: «Ich bin nicht der Diener einer Erinnerungskultur»(2015年10月27日付Basler Zeitung)
Vor allem in Deutschland stösst Ihr Buch auf Ablehnung: Sie wollten vor der Wirkmächtigkeit von Untergangsszenarien warnen und lieferten selbst eines, schreibt der Dresdner Historiker Klaus-Dietmar Henke. Warum reagieren manche Ihrer deutschen Kollegen so gereizt?
Ein Fehler, den meine deutschen Kollegen immer machen, ist, dass sie ihren nationalen Diskurs mit einer universalen Diskussion über den Holocaust verwechseln. Im Gegensatz zu den meisten deutschen Historikern habe ich eine internationale Herangehensweise. Wer sich mit osteuropäischer Geschichte beschäftigt, ist dazu verdammt, international zu denken: Osteuropa ist kleinteilig, man kann keine Geschichte Sloweniens schreiben, wenigstens nicht für ein angelsächsisches Publikum. Daher muss man die Sprachen verschiedener Länder lernen. Man kann den Holocaust gar nicht erforschen, wenn man sich nur auf deutsche Quellen stützt, schliesslich stammten 97 Prozent der ermordeten Juden nicht aus Deutschland. Die meisten deutschen Historiker sprechen nur eine oder zwei Sprachen. Ich dagegen finde es selbstverständlich, dass ich Jiddisch, Polnisch, Ukrainisch und Russisch verstehe.

Aber erklärt das die ganze Ablehnung, die Ihnen in Deutschland entgegenschlägt? Ein deutscher Historiker hat vor Jahren von einer «Sakralisierung der Shoa» durch seine Kollegen gesprochen. Sie sind demnach ein Ketzer, der den Judenmord benutzt, um Gegenwart und Zukunft zu erklären.
Wenn Sie ein Geschichtsbuch schreiben, ist es Ihre einzige Pflicht, die Geschichte richtig zu beschreiben. Ich bin nicht der Diener einer Erinnerungskultur. Ich versuche, den Holocaust zu erklären. Vielleicht habe ich recht, vielleicht auch nicht, aber jedes Argument, das ich mache, wird Erinnerungskulturen stören. Diese sind ja immer darauf angelegt, Geschichte für die Bedürfnisse der Gegenwart zu instrumentalisieren.

Gerade die Deutschen sind ja enorm stolz auf ihre Erinnerungskultur. Sie sagen das nicht offen, aber im Grunde denken sie doch: Die Aufarbeitung und Bewältigung der Vergangenheit, das soll uns erst einmal einer nachmachen.
Wenn es darum geht, Verantwortung zu übernehmen, ist das ja auch eine gute Sache. Als Historiker kann ich mich aber nicht einschränken, nur um auf bestimmte Erinnerungskulturen Rücksicht zu nehmen. Genau das ist in Deutschland aber geschehen: Die Frage, inwieweit die Sowjetunion die Bedingungen geschaffen hatte, die zum Holocaust führten, wurde zu einem Tabu. Etwa die Hälfte des Holocaust geschah aber auf sowjetischem Territorium. Praktisch alle Kollaborateure, die Waffen tragen durften, waren Sowjetbürger.

Damit schieben Sie der Sowjetunion zumindest einen Teil der Schuld zu und entlasten die Deutschen.
Ich sage nicht, dass Josef Stalin oder die Sowjetunion schuld waren, aber ich sage, dass sie ein wichtiger Teil des Kontexts sind. Der Holocaust begann nicht 1933 oder 1939, sondern 1941, als die Deutschen in der Sowjetunion einfielen.

全文URL: http://verlag.baz.ch/artikel/?objectid=9C251CF2-D83B-40EE-ABFF470EA4B386CF

以下、関連記事を引用:

▼引用2)出典: ナチズムの長い影―1945年以降のドイツにおける過去をめぐる政治と記憶の文化*/ラインハルト・リュールップ/西山暁義訳
ドイツにおける記憶の文化を語ろうとすれば、あらゆる大小の記憶や歴史的啓蒙の施設とともに、1996年以来、新たな国民の記憶の日が存在することに触れないわけにはいきません。すなわち「ナチズム犠牲者の記憶の日」としての1月27日のことです。この日は「アウシュヴィッツ解放」の日に設定されましたが、近年、国際連合がこの日を国際ホロコースト記念日であると宣言したこともあり、世論において、そしてまたドイツの指導的な政治家たちにおいてでさえ、もっぱら「ホロコーストの日」としてのみ語られるようになりました。そのため、この国民的記念日は、あたかもユダヤ人(犠牲者)に対してのみ捧げられたもので、国内・国外を問わず全てのナチズムのテロ(暴力支配)の犠牲者に対してのものではないかのような印象を与えています。こうした内容的なズレや矮小化を除けば、この日は、定期的に連邦議会の特別会議がテレビ中継されたり、地方ごとに独自の催し物が開かれるなど、公共の意識において深く定着しています。
国民的な記憶の文化はまた、広く認識される、大規模で表象的な場所を必要とします。しかし、80年代にまず旧西ドイツにおいて、そしてその後の統一ドイツにおいて成立した記憶の景観にとって特徴的なのは、むしろ記憶の形態の生き生きとした多様性であり、個々の歴史的な場所への直接的な関連づけ、そして何よりも地域住民の積極的な参加です。それゆえ私は以下に、この活動的で、分散的、つまり首都に集中しない記憶の文化の3つの要素についてとくに指摘したいと思います。

全文URL: http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es_8_Ruerup.pdf

▼引用3)出典: 〈 わたしの“おすすめコーナー〉/『忘却に抵抗するドイツ―歴史教育から「記憶の文化」へ―』岡裕人 大月書店 (2012/6/20) 1800 円+税
 「記憶の文化」とは、「記憶」を個人のものとしてでなく、地域や国の人々が集団の記憶として共有し、例えば加害、被害など違う立場に立つものによる粘り強い対話によってさらに普遍的なものへと高めていくとりくみそのものでもある。過ちを二度と繰り返さないために社会や政治にはたらきかける力をもてるよう、「記憶」を常にケアーし、育み、表現し、さらに共有していく試行錯誤が続けられている。
 その具体的な例としてドイツとポーランドの教科書をめぐる市民たちの実践が述べられている。両国の人々が時間をかけて和解をめざし人間として交流しながら議論を進めていく。日中韓三国で『未来を拓く歴史』という教科書が出され、同じようなとりくみが民間で始まっている。お互いに本音で話合い、時には譲り合いながら歴史教育を見直そうという取組みが今後も広がっていけばいいと思う。

 日本では戦争の被害者性ばかりが語られるようにみえる。著者は「人間全体の存在を破滅に追いやる原爆投下。日本人たちだけでなく、強制連行された中国人や朝鮮人、それに戦争捕虜も被ばくした。被害ばかりでなく、加害に関わる記憶も長崎にはある」という。広島・長崎があるのに、「福島原発事故に対する日本人の反応に照らして考えてみると、今まで日本には『記憶の文化』が大きく成長しにくい伝統的状況があったといえるのではないだろうか・・・」
(加藤文子 会員)
全文URL: http://www.exblog.jp/myblog/entry/edit/?eid=d0103632&srl=22406591

▼引用4)出典: 三好範英(読売新聞編集委員)『ドイツリスク「夢見る政治」が引き起こす混乱』光文社新書、2015年
 繰り返すが、ドイツに屈服とも言える歴史認識を強いたのは、同国の過去の戦争犯罪の中心がホロコーストという、何人も肯定できない絶対悪、人道に対する罪だったからである。国際社会でまっとうな地位を回復するためにはドイツは謝罪するしかなかった。ドイツも旧ドイツ領からのドイツ人追放や、連合国による主要都市に対する空爆で、数百万人単位の民間人の犠牲者を出しているにもかかわらず、それを含めたすべての損害をナチズムに起因するものとして受け入れるしかなかった。歴史認識の中心に、「アウシュビッツ(に象徴されるユダヤ人虐殺=ホロコースト)を二度と起こさない」(ドイツ語で「Nie wieder Auschwitz.」)という倫理が入り込むことは、不可避のことだった。そして、時代を経るにつれ、当初ナチスに限定していた糾弾の対象が、国防軍から外務省など当時の統治機構に広がり、第2次大戦の戦争遂行全般も克服すべき過去となったのである。
 一方で、歴史認識に関しドイツ知識人が抱く屈折した心理が存在する。第2次大戦後、ナチ・ドイツによる蛮行に対する国際社会の厳しい非難はドイツ知識人を苦しめたから、その心理的補償を得るには、「過去の克服」を徹底してそれを誇る、といった屈折した形をとった面があるのではないか。ドイツ語に「罪を誇る」(Schuldstolz)という言葉があるが、戦争に伴うすべてをドイツの責任として受け入れて謝罪することを続けているうちに、ドイツ人は、逆説的だが、過去の克服に関して、倫理的な高みを獲得したと信じ込むようになった。いわば「贖罪のイデオロギー化」が起こったのである。
 そこに、日本が過去の正当化に拘泥化することを倫理的に批判する、少なくとも主観的な優越性が生まれた。ドイツ人に対し、ドイツの過去克服の歩みが世界の模範であり、日本は邪悪である、と繰り返し語りかけることは、屈折した優越感をくすぐる働きをする。そこには、ナチズムの過去を糾弾され続けてきたドイツ人が、「道徳的に自分より劣った日本人」を発見して、バランスを回復する精神のメカニズムがあるのではないか。それは、素直にナショナルな感情を表出することをタブー視されてきたドイツ人がたどり着いた、屈折したナショナリズムの表現なのかもしれない。 上掲書、pp.218-219

by ka2ka55 | 2015-10-31 00:37 | ニュース