Das Notizbuch von ka2ka ― ka2kaの雑記帳

ルーベンスに首ったけ(3)

ところで『花輪の聖母』を見ると、上野の国立西洋美術館に収蔵されているルーベンスの2作品『眠る二人の子供』(1612-13頃)と『豊穣』(1630年頃)にも共通して見られるいわばソフトテイストな「ルーベンスらしさ」が感じられる。しかし、今回「アルテ・ピナコテーク」で観た一連のルーベンス作品は、どちらかといえばハードなものが印象的だった。そして必ずしもルーベンスの代表作とは言えないかもしれないが、ルーベンスといえばどうしても『メドゥーサの首』(もしくは『メデューサの頭部』)(心臓の弱い人、蛇など爬虫類系が苦手な人は要注意)(1617年頃)を挙げないわけにはいかない。これはミュンヘンではなくウィーンのKHM(美術史美術館)で数年前に観た作品。
 血腸(ちわた)を引きずった生首。
 捻転する、無数の獰猛な蛇たち。
 目をみはるグロテスク、息を呑む戦慄のこの神話画は、一方で、凄惨の美ともいうべき強烈な磁力によって見る者を捉えて放さない。
 何をどう描けば生理的嫌悪感を与えられるか熟知したルーベンスは、同時にまた、卑俗に堕(だ)すことなく芸術性を維持するという離れ業をも見せつける。多くの画家によってくり返し描かれてきた夥しいメドゥーサ像のうち、これは迫力においても表現の上でも出色の一枚だ。
                                      中野京子著『怖い絵3』(朝日出版社)p.60
まさにその通りだと思う(中野京子(先生)の文章は凝った言い回しがたまに鼻につく場合もあるが、センスは抜群である)。そして「多くの画家によってくり返し描かれてきた夥しいメドゥーサ像のうち」ルーベンスの作品との関連で興味深いのが、カラヴァッジョ作『メデューサの首』(1598年頃)である。ルーベンスの作品があまりにも強烈であるため、カラヴァッジョの(自画像とも言われる)メドゥーサは「平凡」に見えてしまうが、ルーベンスは(注文によって)自作に取りかかる以前にカラヴァッジョ(1573-1610)の作品を明らかに「見ている」と思われる(もちろん、その逆はありえない)。あくまでも想像だが、ルーベンス(1577-1640)は1600年から1608年までイタリアに滞在しているので、この間に見ている可能性は十分に考えられる。また、この間に両者が会おうとすれば会うことも可能だったが、その事実は不明。ちなみにルーベンスはカラヴァッジョの4歳年下。そして、注文を受けたルーベンスは大いにサービス精神を発揮するとともに、渾身の力を振り絞って空前絶後のメドゥーサ像を仕上げた(と思われる)。なお、同作品もフランス・スネイデルとの共作と推測されていたが、現在は全面をルーベンスが手がけたと考えられているとのこと。その点では(共作としている)上掲書の記述は誤り。しかし、いずれにしても以下の指摘は見事であり、個人的になぜいまルーベンスの作品に「首ったけ」になるのか、得心がいった次第。
 ルーベンスの作品はどれも、たとえこれ以上ないほどリアルな描写に徹しているときでさえ、どこかしら作りものめいた印象を与える。理知と計算によって、目指すとおりの美的効果を上げているからかもしれない。本作も、舞台にスポットライトが当たり、「恐怖」というエンターティンメントを見せられた気がする。
 貶(けな)しているわけではない。そこが好き嫌いの分かれる点だと思われるのだ。人工美の極致という点でいえば、オペラとよく似ている。「こんにちは、さようなら」まで朗々と歌いあげる非リアリズムの世界に酔える者には、ルーベンスの芝居がかった世界もすばらしく魅力的と映る。
                                         中野京子著『怖い絵3』(朝日出版社)p.67

by ka2ka55 | 2010-09-14 17:47 | 美術