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注目オペラ公演(2)G.マイヤベーア作曲《ユグノー教徒》@ベルリン(DOB)2016/11/13プルミエ

ジャコモ・マイヤベーアGiacomo Meyerbeer(1791-1864)とその作品については、これまでに何度か取り上げているが(下記参照)、それほど上演されることが多くない同作曲家の作品のうち《ユグノー教徒(Die Hugenotten/Les Hugenots)》がこのところドイツ国内の歌劇場で相次いで上演されている。すなわち、キール(9/24プルミエ)とヴュルツブルク(10/2プルミエ)だが、これらどちらかといえばスタッフやキャストも含めてマイナーな劇場の公演であるのに対して、来月(メジャーと言える)ベルリン・ドイツ・オペラ(DOB)で上演予定の《ユグノー教徒(Die Hugenotten)》(11/13(日)プルミエ)は、指揮(ミケーレ・マリオッティ(Michele Mariotti)および演出(デビッド・オルデンDavid Auden))をはじめとしてキャスト(P.チョーフィ(Patrizia Ciofi)やJ.D.フローレス(Juan Diego Flórez)など)にも一流が配されているという点で注目される。「あらすじ」はWikiの記事を参照。
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▼参考記事
・G. マイアベーア作曲《悪魔のロベール(Robert le Diable》とはどんなオペラなのか…(http://ka2ka.exblog.jp/22365862/
・続)G. マイヤベーア作曲《ヴァスコ・ダ・ガマ》または《アフリカの女》とはどんなオペラなのか…(http://ka2ka.exblog.jp/21745369/
・キール版のOpernnetz評
・ヴュルツブルク版のOpernnetz評

▼参考動画


ヴュルツブルク版のトレーラー




1991年DOB版のオープニング(上)とフィナーレ(下)



1990年シドニー全曲版(サザーランドの引退公演)

by ka2ka55 | 2016-10-05 18:00 | オペラ | Comments(0)

続)G. マイヤベーア作曲《ヴァスコ・ダ・ガマ》または《アフリカの女》とはどんなオペラなのか…

▼約5カ月前(4/28)の記事ですが、いよいよプルミエ(10/4)が近づき劇場(DOB)の当該サイトには舞台写真やその他の情報も公開されているので以下、同記事を再掲しておきます。

ベルリン(DOB)の来季(2015/16)、2015年10月4日にプルミエのG. マイヤベーア作曲《ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)》(E. マゾーラ(Enrique Mazzola)指揮、V. ネミロヴァ(Vera Nemirova)演出)とはどんなオペラなのか…演出がV. ネミロヴァということもあり、ちょっと気になったので調べてみた。
そもそもG. マイヤベーアとは、どんな作曲家なのか…「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には以下のように記載されている。
ジャコモ・マイヤベーア/Giacomo Meyerbeer(1791―1864)
ドイツの作曲家。ベルリン近郊の富裕なユダヤ人の家庭に生まれ、早くから音楽の才能を発揮、9歳でピアニストとして活動を始め、のちにフォーグラーらに作曲を学ぶ。1812年以後オペラなど劇場音楽を発表、24年ベネチアで初演された『エジプトの十字軍』により名声を獲得した。翌25年このオペラのパリ上演の成功を機に彼はパリに居を定めるとともに音楽のスタイルを一変させた。彼はドイツ風の手堅い和声、イタリア的な旋律美の追究に、フランス的要素、すなわち劇自体の完成度、舞台装置などの真実味、そしてとくに歌詞と音楽のアクセントの一致を付け加え、31年パリで『悪魔のロベール』を初演、また36年にはパリで『ユグノー教徒』を発表、いずれも大成功を収めた。42年にプロイセン宮廷音楽総監督に任命され、ベルリンに戻った。以後ベルリンとパリを往復しつつ独仏両国語の台本に作曲、49年にパリで初演された『預言者』(「戴冠(たいかん)式行進曲」を含む)も成功した。最後のオペラ『アフリカの女』は1837年から25年余を費やして作曲された大作だが、その上演準備中に病を得てパリに没し、この作品は死の翌年の65年に初演された。
 彼がおもにパリで発表したオペラは、壮大な舞台装置、群衆を登場させるスペクタクル的効果と、それに見合った華美な音楽を特徴とし、当時人気を集めた。彼は「グランド・オペラ」とよばれるこのジャンルを代表する作曲家であるが、このほか、多種の声楽曲、ピアノ曲を残している。[美山良夫]

同解説では触れられていないが、マイヤベーアで連想するのは、やはりR. ワーグナー(1813-1883)との関係である。すなわち、いまでこそワーグナーの知名度はマイヤベーアと比べて桁違いではあるが、1840年前後、ワーグナーの第一次パリ滞在中、当時パリの音楽界に君臨していたのは、ほかでもないマイヤベーアだった。両者は師弟関係とも言えるが、じっさいにワーグナーの初期の出世作《リエンツィ》(1840年)はマイヤベーアに範をとったとされる。しかし、ワーグナーの師に対する態度はけっして尊敬の念に依るものばかりではなかった。ワーグナーの「反ユダヤ主義」は、このパリ時代の体験と密接に関係しているという説もあり、その意味でもユダヤ系であるマイヤベーアとの関係は微妙である。さらに、興味深いのは、いったんはパリで大成功を収めたマイヤベーアがナショナリズムの台頭とともに次第にその作品が上演されなくなる一方で、パリ時代は不遇だったワーグナーの名声が徐々に上がってくること。いわば時代のめぐり合わせとも言えるが、マイヤベーアの音楽に対する評価としては、ネガティブなものが多い中、Wikiの以下の記事が参考になるかもしれない。
同時代の作家であるスタンダールからは、「彼はベルリンの裕福な銀行家の息子だが、すすんでイタリアへやってきて、ただの楽長になった」としてロッシーニの亜流の扱いを受け、台本の愚劣さ、博識に裏付けられた非凡な和声的能力、そしてカンティレーナの選択のまずさを指摘されている。またシューマンが露骨に攻撃したことが後世に与えた影響は非常に大きく、その死後作品の評価は急速に低下した。
同じくパリで活躍したユダヤ系ドイツ人であるオッフェンバックと比べても、人気の継続性、再評価ともに乏しい点は否めない。邦訳されたシューマンの評論集には、彼の評が十字架のマーク一つだけというものがある。
しかし、マイアベーアは先進的な管弦楽法の扱いには長けており、その音響はワーグナーを明らかに刺激した。現在では、彼の成功を妬んだ同時代の作曲家による攻撃と、彼が歌劇で行った様々な独創的な試みは、別個に整理するべきであるという態度に変わりつつある。

《ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)》または《アフリカの女(L'Africaine) 》は、上の解説にあるように、マイヤベーアの最後のオペラ(奇しくも初演は150年前(1865年)の4月28日、パリ・オペラ座)。そのタイトルからもわかるように、ポルトガルの探検家ヴァスコ・ダ・ガマをめぐる2人の女性との物語。

あらすじ

▼参考動画



《アフリカの女(L'Africaine)》全曲版@ヴェネツィア・フェニーチェ劇場2013年11月23日プルミエ
http://www.operabase.com/diary.cgi?id=none&lang=de&code=wivef&date=20131123

by ka2ka55 | 2015-10-01 17:04 | オペラ | Comments(0)