Das Notizbuch von ka2ka ― ka2kaの雑記帳

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マタイ受難曲@錦糸町

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へルムート・ヴィンシャーマン指揮
J.S.バッハ
マタイ受難曲」(日本語訳)
2010年9月30日(木)/すみだトリフォニーホール/午後6時半開演/10時終演/1階21列S席/★★★★

久しぶりに「マタイ受難曲」を聴きに行った。前回聴いたのは約2年半前の初台での「聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団」によるもの(当該記事)。これが実に退屈な演奏で「マタイってこんなにlangweilig(=boring)だったか」と、そのあまりの長さにひたすら耐えていたことだけよく覚えている。元々バッハはそれほど好きではないが、「マタイ」だけは別格と思っていたはずなのに…。いずれにしてもこの「マタイ」をきっかけにもう当分、「マタイ」を聴きに行くことはないだろうと思ったことはたしかである。
今回は、チケット(S席)を頂いてしまった関係上、行かないわけにはいかない。しかし体調がイマイチ(咳が出やすい状態)であることに加えて雨降り。しかも行きの小田急が停電事故で10分遅れたことなどから錦糸町に着いた時点で開演時間を過ぎていた。したがって第一部の1時間半弱を(1階のS席のはずが)3階の左端(立ち見)で聴く羽目に。
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ところが、演奏は存外にすばらしかった。最初は気づかなかったが、直前に「出演者変更」があり、その関係ですべて日本語訳で上演されるはずが「福音史家」のみドイツ語という変則的(和洋折衷)なものになっていた。しかし、特に違和感はなく、むしろこの「福音史家」役のテノール(櫻田亮)が実にすばらしく、今回はまったく退屈しなかったのも、このテノールのおかげと言えなくもない。以前にもどこかで聴いたことがあるかもしれないが、イタリア・バロック音楽の普及に努めている二期会会員でボローシャ在住とのこと。
しかし、今回の公演の立役者は何と言っても指揮者のヴィンシャーマン氏であることに間違いない。90歳ということだが、まさに「矍鑠とした」という形容がぴったり。最初から最後まで背筋がピンと伸びて立ったままの指揮振りから「老い」はまったく感じられない。ある意味、驚異でもある。ちなみに奥様が日本人の同マエストロには26歳の孫ならぬ息子がいるらしく、その意味でもタダモノではないことは間違いない。いや、マイッタ。
by ka2ka55 | 2010-09-30 23:55 | 音楽 | Comments(0)

ルーベンスに首ったけ(5)

一方、「ヘット・ペルスケン(毛皮さん)」に関して、山崎氏とは別の観点から(おそらく)ルーベンス研究の第一人者と思われる高橋裕子氏の同書中の「作品解説」も興味深い。単に「画家が妻の裸体を描いた作品」というのはあまりにも単純すぎる説明であるらしい。
 ルーベンスの遺言書中で特に妻への遺贈が指定されている作品で、題名も画家自身による。私的な性格の作品であることは明らかだが、入浴の前後の、あるいはアトリエでのポーズの休みに毛皮で裏打ちされたコートをまとったときのエレーヌの姿に霊感を得て即興的に描かれたとする十九世紀以来の定説は、まずエーフェルトにより疑問視され、近年ヘルトにより完全に否定された。肖像画としては異例であり、他方、純粋絵画としての「裸婦」を十七世紀に求めることには無理があることから、ヘルトはこれが妻をヴィーナスに見立てた作品であることとする。現在は暗くなっている背景の左手に微かに空が、右下に獅子頭の噴水が認められ、戸外の情景であることがわかるが、これは古代の彫刻家プラクシテレスの傑作としてプリウスが伝えている《水浴のヴィーナス》がルーベンスの発想源であったことを暗示する。明らかに肖像でありかつキューピッドが登場しているこの絵の模倣作がルーベンス周辺の画家によって描かれていることは、見立て説を決定的に裏付ける。エレーヌのポーズは古代のヴィーナス像の一類型(例えば《メディナのヴィーナス》ウフィツィ美術館)に基づき、毛皮と裸身を結びつけるという着想はティツィアーノの《毛皮をまとう少女》(ウィーン、KHM)と《鏡を見るヴィーナス》(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)に由来する。構想全体については十六世紀末のアントヴェルペンの画家マールテン・デ・フォスに基づく版画《スザンナ》との関連も明らかである。こうした文脈のなかに位置づけてみるとき、本図が偶然の所産でないばかりか「写実」でもないことはおのずと理解されるであろう。(後略)p.91

by ka2ka55 | 2010-09-29 23:33 | 美術 | Comments(0)

ルーベンスに首ったけ(4)

d0103632_4464517.jpg相変わらずルーベンスが面白い。
先日図書館で借りてきた美術書の中に掲載されていた山崎正和氏のエッセイ(遅れてきたルネサンス・マン―ルーベンスの矛盾と綜合―)が、いわば「ルーベンス礼賛」ともいえる文章で実に興味深い。同書の表紙にもなっている『ヘット・ペルスケン(毛皮さん)』(1635-40年頃、板 油彩 175×96 cm、ウィーンKHM蔵)に関する件を以下に引用。
 ルネサンスから十七世紀にかけて、裸体像を描いた作家はおびただしく見いだされるが、自分の妻の裸体像を、しかも、あの意図的な猥褻さにおいて描いた作家は、ほかに思い出すこともできない。エレーヌ・フールマンの裸体は、それが彼の妻の肉体だという伝記的事実によって、また半ば毛皮の下に隠されることによって、いわば、現実そのものの生々しさに強く結びつけられている。
 イギリスの美術評論家ケネス・クラークによれば、ヌードと「裸(ネイクド)」とは本質的に違ったものだとされ、ヌードとは、始めから裸体以外のありようを持たない肉体の姿であり、現実との関わりを欠いたひとつの純粋な形体にすぎないといわれる。それにたいして、「裸」とは、本来、着物で被われるべき肉体が剥がれた姿であり、そこには、現実との関連によって想起される猥褻さがあらわれてくる、といわれる。そして、クラークにしたがえば、過去の美術史上の裸体像はすべて、「裸」ではなくてヌードである、と考えられるのであるが、おそらくその美術史上、ルーベンスのエレーヌ・フールマンだけはヌードではなくて「裸」であった、と見ることができる。
 そうした真の意味においての裸の女は、やがて、二十世紀にいたっておびただしく描かれることになるが、その遠い芽ばえはルーベンスにあった、といわなければなるまい。いずれにせよ、あの、表面上の通俗性と内部にある激しい反俗性の分裂はわれわれがこの現代においてルーベンスを思いだすとき、もっとも魅力的で、しかも、戦慄を誘う魅力である、といえるであろう。
『カンヴァス世界の大画家13 ルーベンス』(中央公論社刊)pp.67-68

by ka2ka55 | 2010-09-28 23:39 | 美術 | Comments(0)

逸楽郷

きょう(27日)の朝刊で目に留まったのは、マドリードのプラド美術館が「16世紀フランドルの巨匠ピーテル・ブリューゲル(父)の大作を新たに確認した」と発表した旨の記事(「聖マルティヌスのワイン」と題する縦148センチ、横270.5センチの大型のテンペラ画。1565~68年に制作されたとみられる)。「美術史に残る大発見となる可能性がある」とのこと。写真を見ると、素人目にも「ブリューゲルっぽい」ことは一目でわかるが、いまだにこんなことがあるのかとちょっと驚きである。
なお、現在個人が所有している同作品はプラド美術館が購入する見込みだが、ZEIT紙などの記事によると、市場価格としては少なくとも「2500万ユーロ(約28億円)」の価値があるとか。
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また、多作のルーベンスとは異なり「ブリューゲルの現存作品は晩年の10年余りのものに集中しており、世界でこれまで40点しか確認されていない」というのも意外。そのうちの多くはたしかウィーンのKHMが所蔵しているが、ミュンヘンの「アルテ・ピナコテーク」が所蔵しているのは2点のみでそのうちの1点が(ドイツ語では)"Schlaraffenland"(逸楽郷)と題された上の作品(1567年、樫材、52×78 cm)。
変な絵で妙に気になるところがブリューゲルらしいのだが、ハンス・ザックスの詩に拠ったとされる同作品について手元の資料には以下のように説明されている。
無為飽食の無可有郷は人間の夢の一つの典型として古代以来の歴史を持つものであるが、ブリューゲルの場合には、これも一つの《逆になった世界》の表現として解釈されるべきものであろう。中央食卓のある木のまわりに、兵士、農民、教師と思われる三人が正確に九十度の間隔をもって車軸のごとく配され、左上部の小屋には騎士が口を開けて、飛来する焼き鳥(現在では見えない)を待っている。右上方にはクリームの山、それへ穴をあけて喰い付く男が見える。ナイフをさした焼き豚、匙付きのゆで卵、屋根で焼けるパン菓子、この働くことの悪徳である世界では、食物の方から走って来てくれるのである。ブリューゲルはこの絵で一体何を諷しようとしたのであろうか。

by ka2ka55 | 2010-09-27 16:15 | ニュース | Comments(0)

天使とキューピッド(4)

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ちなみに、これらはルーベンスではなく、「アルテ・ピナコーテーク」のルーベンスの展示室のすぐそばに特に警戒用の柵などなしに展示されていたラファエロの3作品。左から『テンピ家の聖母』(1507年頃、クルミ材、75×51cm)、『カニジャーニ家の聖家族』(1505/06年頃、リンデン材、131×107cm)、『垂幕の聖母』(1513/14年頃、クルミ材、65.8×51.2cm)。ルーベンスの圧倒的な(下品な)作品群と比べるとあまりに上品すぎて面白味には欠けるが、どれも名品には違いなく、この3作品で総額いくらになるかという下品なハナシではなく、真ん中の作品について、ここに描かれている「天使たち」は18世紀末に塗りつぶされてしまったとのこと。その理由は不明なのだが、たしかに検索してみるとこれら天使たちが描かれていないものが見つかる。修復されて新たに描き加えられたのが1983年ということなので、「アルテ・ピナコーテーク」を初めて訪れた1980年は修復前だったことになるが、残念ながら見た記憶はまったくない。
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「柵などなし」というのはウソでさすがにこのレベルの作品になるとこの程度に「立ち入り禁止区域」が設けられている

by ka2ka55 | 2010-09-26 16:23 | 美術 | Comments(0)

天使とキューピッド(2)

同じくルーベンスの晩年の作品の1つに『愛の庭』(The Garden of Love)もしくは『愛の園』(1635年頃)と題された、いかにもルーベンスらしいおバカな作品がある。これはマドリッドのプラド美術館所蔵のため実物は見ていないが、同解説によると「フランドル地方で流行した上流社会の集いの場面を模して男女の、とりわけ夫婦間における愛の姿を神話的理想像を用いて表現したものである」とあり、この作品の中にも『花輪の聖母』と同様に(有翼の)ヌードの幼児(複数)が描かれている。一見して区別はつかないのだが、こちらの幼児たちがキューピッドであることは絵のテーマから明らかだろう。つまり「愛」をテーマにして「神話的理想像を用いて表現」されているからである。
さて、そもそも「キューピッド」とは何なのか。
 キューピッドは、古代ギリシア時代の神々の一人で、性愛の神様エロスの英語名です。ギリシア名がエロスで、ローマ名はクピドまたはアモル。つまりキューピッド、エロス、クピド、アモルはみんな同じ神様を指しています。
 この神様、一般的には愛と美の女神ヴィーナス(英語名。ギリシア名アフロディア、ローマ名ヴェヌス)の息子とされています。父親は軍神マルスといわれていますが異説もあります。
                                       木村泰司著『名画の言い分』(集英社)p.162
キューピッド=エロスというのはいささか意外に思えなくもないが、しかしこれは間違いない事実であって、このことを理解していれば、天使とキューピッドがまったく別物であることは自明ということになる。そこで同書(pp.166-167)では「天使」について以下のように説明されている。
 天使は純粋な精神体で、天上においてはエーテル(天体の世界を構成する原質)で構成されていると考えられています。つまり、本来は肉体を持たず、姿や形やサイズが決まっているものでもありません。ただ、地上においては物質化して人間のように見えるといった考え方です。ここが画家が天使を表現する際に難しい点であり、実際、多くの画家たちが悩んできました。だからこそ天使は、時代により画家により、女性、少年、青年、および幼児のようにさまざまな姿で表現されてきました。ですが本来、性は存在せず、中性です。

by ka2ka55 | 2010-09-24 23:44 | 美術 | Comments(0)

RE:ホフマン物語@名古屋

同公演の感想や批評が大メディアやネットでちらほら出ているが、(当然のことながら)概ね好評のようだ。とくに昨日(22日付)の朝日夕刊に掲載された評(長木誠司・音楽評論家)などは褒めすぎではないかと思えるほど。ネットではたびたび参考にする「東条碩夫のコンサート日記」の当該記事がアタシの感想に最も近く、4つ星半(★★★★☆)で満点ではなかったのは、やはりタイトルロールの歌唱に難があったという感想の点でも一致する。しかし、いずれにしても名古屋まで行った甲斐は大いにあったと言うべきだろう。
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写真はホフマン(A.C-クルス)とオランピア(幸田浩子)

by ka2ka55 | 2010-09-23 09:28 | ニュース | Comments(0)

天使とキューピッド(1)

西洋美術とくに絵画の鑑賞に際しての基本中の基本ともいえる「天使」と「キューピッド」の違い。頭の中では理解しているつもりでも、いざ実際に絵を見て、これは天使、これはキューピッドと明確に区別するのが簡単でない場合が少なくない。たとえば、先日、ミュンヘンで観てきたルーベンスの「マトモ(?)」な絵として挙げた『花輪の聖母』などは、真ん中に聖母とイエスと思しき人物つまり「聖母子」が描かれているのはタイトルを見るまでもなく明らかだが、その周りに描かれている(中には翼の生えている)ヌードの幼児たちは何なのか。
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通常、聖母子の周りに描かれているのは天使以外には考えられない(キューピッドであるはずはない)。したがって、これらもみな「天使」と見るのが正解だとは思うのだが…。
by ka2ka55 | 2010-09-22 14:11 | 美術 | Comments(0)

風邪が治らない

症状が現れてもう十日になるが、未だ完治せず。熱はなく(ほぼ平熱)、喉の痛みもなく、咳もほとんど出ないのだが、鼻づまりが続いていて、これがなかなか治まらない。そのせいか食欲はあるものの何を口に入れても味覚がなく、文字どおり味気ない状態。こんなことは(たぶん)初めてであり、いささか気が滅入り始めた。
by ka2ka55 | 2010-09-21 17:54 | ニュース | Comments(0)

ホフマン物語@名古屋

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愛知県文化振興事業団第277回公演
あいちトリエンナーレ2010プロデュースオペラ
オッフェンバック(J.Offenbach)作曲ホフマン物語(Les Contes d'Hoffmann)
<プロローグ、エピローグ付き全3幕、仏語上演・字幕付き>
2010(平成22)年9月18日(土)/午後2時開演・5時半終演/愛知県芸術劇場 大ホール/4階右1列B席7K/★★★★☆
キャスト・スタッフ

《ホフマン物語》が名作であることをあらためて実感できたのは、18日の名古屋の公演が期待以上の「名演」だったことと無関係ではない。
《ホフマン物語》といえば、忘れもしない今年3月16日にチューリッヒで観た最悪・最低の公演以来だが、もし何の予備知識もなしにあのチューリッヒの公演を観てしまったら、もう二度と《ホフマン物語》を観ることはないと本気で思えるほど配役も演出も何から何までB級以下の酷さだった(関連記事)。しかし、あれは「悪夢」だったのだと(寛大に)諦めることができるのも今回の公演がすばらしかったからに他ならない。
まず美術(横田あつみ)や衣装(アレッサンドロ・チャンマルーギ)を含めた演出(粟國淳)を称えておきたい。カーテンコールで演出家らも登場したが、ブーイングがなかったことは当然としても、もっとブラボーがかかってもよかったのではないか。しつこいようだが、チューリッヒの演出(アサガロフ)があまりにも酷く、あれと比べればどの演出でもマトモに見えるというレベル以上に優れた演出だったと思う。舞台は全体的に暗めで座った席も遠目だったため詳細(粗)は見えないまでも作品が醸し出す幻想性(もしくは怪しさ)が十二分に伝わってきた。舞台装置や衣装には相当にコストがかかっているように見えた。その意味でも大いにやる気が感じられた。
演奏面では、指揮(アッシャー・フィッシュ)も管弦楽(名古屋フィルハーモニー交響楽団)も申し分なかった。この指揮者はイスラエル人で師匠はバレンボイム。師匠と同様にワーグナーを得意とするとともにピアノの名手でもあるとのこと。
歌唱面に関しては、3つのエピソードのそれぞれのヒロインであるオランピア(幸田浩子(S))、アントニア(砂川涼子(S))、ジュリエッタ(中嶋彰子(S))は、いずれも十分に持ち味を発揮して期待を裏切らない立派な歌唱と演技だった。外題役のホフマン(アルトゥーロ・チャコン=クルス(T))とミューズ/ニクラウス(加賀ひとみ(Ms))がやや力不足の感はあったが、いずれも全幕通じてほぼ出ずっぱりで難役であることは間違いない。難役といえば、4役(リンドルフ、コッペリウス、ミラクル博士、ダベルトゥット)を一人で歌い演じきったバスのカルロ・コロンバーラに対して最も多くのブラボーがかかっていたが、これには大いに納得である。
それにしても、この公演が2回しか行われず、再演の可能性もないというのが、いかにも残念であり、もったいないと思わずにはいられない。もし東京で上演されるとしたら、おそらく(舞台装置の関係上)NNTT以外では上演できないだろう。
by ka2ka55 | 2010-09-20 07:01 | 音楽 | Comments(0)