Das Notizbuch von ka2ka ― ka2kaの雑記帳

Hurenkind ― 《ヴォツェック》鑑賞記に代えて(2)

(1)のつづき
ただし、《ヴォツェック》の中でこの単語が使われているのは一箇所のみ。だから余計に目立つのか。第1幕 第3場でマリーが登場して、マルグレートとからんだ後、子守唄を歌うシーンの前に子どもにつぶやく際の台詞の中にある。
Komm, mein Bub! Was die Leute wollen! Bist nur ein arm' Hurenkind und machst Deiner Mutter doch so viel Freud' mit Deinem unehrlichen Gesicht!
(訳)おいで、坊や。人には言わせておけばいいさ。おまえは、みじめな私生児さ。でも、母さんにはとっても喜ばしいのさ、おまえの不誠実な顔が。
何とも自虐的とも言える変な台詞。一般に同場はマリーの「娼婦(Hure)性と母(Mutter)性が不調和に混在」する特徴の一端を表わすシーンとされているらしい。
さらに、この台詞で興味深いのは、最後の"unehrlich"(不誠実な)という単語。よく見ないと"unehelich"と間違いそう。
文字を見てようやく識別できるほどだからほとんど聞き取れないのだが、"unehelich"であれば「非嫡出の」つまり「私生の」を意味し、"uneheliches Kind"で「私生児」となる。何とも言えぬ紛らわしさ。台本を書いたベルクがその通り意図したものなのか。
いずれにしても母親から「私生児(=娼婦の子)」と言われてしまった子はあまりにやるせないし立つ瀬もない。そこで、今回の演出では、母親に対してそのことをなじるかのような行為をこの子にさせたりする。つまり部屋の壁にこれみよがしに黒いペンキで"Hure"と書かせるのだ。字幕では、たしか【売女】と表示されていた。

今回の演出(アンドレアス・クリーゲンブルク)では注目する点がいくつもあったが、やはりこのマリーの子(私生児)に対する演出が最も印象的だった。元の台本にはない黙役を登場させてあれこれ演技をさせる演出はこれまでいくつか見た。しかし目障りでしかない場合が多く、あまり成功した例を知らない中、いわば画期的というか例外的に成功した演出だと思う。

なぜこのような演出がなされたのか。

舞台に水を張ることや親子3人以外の人物を異様な衣装やメイクでモンスターのように見せる演出については、1年前のミュンヘンでの舞台写真や動画から十分にわかっていたが、この子の演技については、オペラトークでもプログラムの製作ノートでも具体的には言及されていない。そもそも誰がこの役を演じるのか事前にまったく明らかにされていなかったこともあり妙に気になっていたこともたしか。

ところで、岩下眞好(ドイツ文学者)が「『ヴォツェック』演出の変遷をたどる」と題して、親子3人とりわけ母と子の悲劇を際立たせた当初からの一般的なセンチメンタルな演出に1990年代に入って変化が現れるとともに、決定的な変化をもたらしたのがペーター・コンヴィチュニーであり、1998年のハンブルク州立歌劇場におけるその演出だったとプログラムの中で書いている。
そして、この演出では、今回の演出とは正反対に子どもは全3幕を通じて全く姿を現わさず、マリーの子は胎内に宿している(ひょっとしたら想像妊娠かもしれない)設定になっているとか。まあコンヴィチュニーらしい倒錯的な発想と言えなくもないが、この演出に関しては、この本の中のインタビューでなぜ子どもを登場させなかったかについて、次のように答えている。
 子供というのは、人形やらと同じで、一種の小道具なのです。子供を出した途端に、話が非常にセンチメンタルになる。それは避けたかった。あの演出では、あらゆる小道具を取り除いていった結果、紙幣だけが残ったのです。主人公の貧窮を表現するのに、小道具は百害あって一利なしです。どんな舞台装置も、衣装も、ありふれた貧乏のイメージを示すだけで、本当の貧乏など伝わらないのです。
 それに、『ヴォツェック』の物語は、主人公は死んだ段階で終わっているのです。最後の一場は付け足しの、いわばエピローグのようなものです。こう言ってもいいでしょう。あれは、それまでに終わったことを回顧する場なのだと。子供には、どうしても未来に対するパースペクティヴといったものがついて回る。それはこの場まずいのです。 p.219
これまたコンヴィチュニーらしいごもっともな説。しかしこれもまた一面的かつ独断的であることは、今回のクリーゲンブルクの演出が証明しているのではなかろうか。
まるでコンヴィチュニーの演出に対するあてつけでもあるかのように全3幕を通じて子どもを舞台に上げたにもかかわらず、しかも最後のエピローグとも言えるシーンでまさにセンチメンタリズムが完全に排除されてしまったのが今回の演出だったと思う。
by ka2ka55 | 2009-11-29 23:09 | 音楽 | Comments(0)