Hurenkind ― 《ヴォツェック》鑑賞記に代えて(1)
管弦楽(東フィル)については(演奏はタイヘンだったろうとは思うが)可もなく不可もなく。それでも、あれだけ聴かせてくれれば十分。というか、今回は目が舞台に釘付けになってしまっていたので…。
歌唱キャストについては、やはり当然のことながら外題役(トーマス・ヨハネス・マイヤー)が演技面でも文句なしだった。マリー(ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン)は演技はさすがに期待どおりだったが、メゾソプラノというのが減点対象。からむ女声として唯一のマルグレート(山下牧子)がやはりメッゾなので対比の妙が楽しめず残念。ちなみに台本の指定では、マリーはソプラノ、マルグレートはアルトとなっている(!)
その他では特に印象に残る歌手はいなかったが、何と言っても、ほとんど黙役とはいえ全幕を通じてほぼ出ずっぱりのマリーの子(中島健一郎)の存在感が噂どおり抜群だった。カーテンコールでもブラボーを独り占めしていたほど。今回の公演(演出)の最大の功労者と言えるかもしれない。
さて、そのマリーの子が"Hurenkind"として登場するわけだが…。
"Hurenkind"(発音は「フーレンキント」)について、ネーティブもしくはドイツ語がある程度わかる人には自明の単語だろうが、アタシは不覚にも辞書であらためて確認するまで、これには文字通りの意味以外に少なくとも2つの別の意味があることを知らなかった。
そして、その1つが「私生児」の意味。マリーの子には名前がなく、「私生児」としてのみ登場するわけだが、ドイツ語で「私生児」を意味する語は他にもあるにもかかわらず、よりによって"Hurenkind"が使われているのには軽いショックを受けた(というか、ちょっとウケた)。