最強のオペラ?―演出について考えてみるの巻
一方、舞台装置や衣装を含めて演出らしい演出がない、いわゆる演奏会形式のオペラも何回か観た/聴いた。歌手やオケが充実していれば、むしろヘンチクリンな演出で煩わされずに済み大いに楽しめる場合もある。そんな演奏会形式の中でこれまでで最も楽しめたのが、8月にルツェルンで観た/聴いた"Der Freischütz"《魔弾の射手》かもしれない。これはホントにすばらしい公演だった。《魔弾の射手》というと、あまりにも有名な序曲と迫力のある合唱ぐらいの印象しかなく、しかも昨年の新国で上演された《魔弾の射手》は演出がイマイチ、衣装が最悪だったため、すっかり興ざめしたせいか「『ドイツ人のドイツ人によるドイツ人のためのオペラ』第一号とも言える記念碑的な作品」と言われるわりに好きな作品ではなかったのだが…8月の公演以来、印象が一変してしまった。と同時にオペラにおける演出とは何なのか、あらためて考えてみるきっかけともなった。
そんなこんなで今回の初台での《オテロ》だが、この上演を企画し、そのプレミエを観ることなく亡くなった若杉弘は《オテロ》を「イタリア・オペラの最高傑作」と評価したらしい。若杉弘に限らず、どちらかというと「通好み」のオペラなのかもしれない。一般的には《椿姫》《リゴレット》《アイーダ》が人気の上位演目であることは間違いなく、《オテロ》が好きという人は滅多にいないのではなかろうか。嫉妬深い男同士が騙し騙されて破滅に向かう話に共感できないというのが人気のない理由だろうが、まあ、オペラの主人公にいちいち共感していたら命がいくつあっても足らないわけだし…
「私が最も愛するヴェルディ・オペラ、いやすべてのオペラのなかで最高傑作だと考えているのが『オテロ』です。」と書いているのは、『オペラ・シンドローム』の島田雅彦だ(pp.123-124)。どこがそんなにいいのか。
私はロッシーニ的な、スーパーフラットに登場人物が書き割りされる脳天気な作品にも魅力を感じます。でも、やはり陰影の濃い人物像が表現されるロマンチックな作品、とりわけ『オテロ』に心が躍ります。それは、たんに複雑な物語だからよいという理由からではありません。シェイクスピアの原作は言葉の洪水であり、その言葉数の多さによって、複雑な人間の心理を観客に伝達しました。音響効果も照明効果もなかったころの芝居ですから、それは当然です。しかし、オペラでは、言葉を八割がた削り、そのぶんの描写は音楽が請け負ってきた。つまり、オペラの構造の柱となるのは物語だとしても、そこに音楽的リアリティが十分に組み合わされなければ、物語は伝わらないのです。
たとえば第一幕のラストで、夫婦の愛が高らかに歌われつつも、どこか不安が観客の胸に募ってくるのは、セリフとはべつのニュアンスが音楽を通して伝わってくるからに他なりません。あるいは、イアーゴが巧みな口車を弄しても、音楽がそれを嘘だと告げている。物語の流れや、個々のキャラクターも、音楽の起伏がシミュレーションしていくのです。そうした、矛盾しあうダブル、トリプルのメッセージを発信できること。これがオペラのメリットであり、最大の魅力です。それを改めて気づかせてくれるのが、『オテロ』という作品なのです。(pp.131-132)